瓶井の塔



<片山峰子氏ー第2発行・単行本「瓶井の塔」

◆単行本「瓶井の塔」をご希望の方は、送り先住所氏名明記の上、著者片山峰子氏宛てに直接お申し込み下さい。頒布価格は1冊 1000円です。 

    片山峰子氏の連絡先 〒703-8256 岡山市中区浜3丁目10-29-12 電話(086)272-8761


◎メディア紹介


■<本「瓶井の塔」のあらすじ紹介>

◆「瓶井の塔」
 岡山市国富地域、操山の中腹に聳える瓶井(みかい)の塔を見て育った山麓近くの農家の若い男女早苗と藤生の結びつきを中心にした物語である。
 夫々の家族の四世代にわたる変遷を織り交ぜており、戦中戦後の混沌とした生活模様などの時代背景が描かれている。

◆「化粧紙」
 著者片山峰子氏の処女作。主人公の78歳になる母の末期肝臓がんによる入院をとおして、同室入院患者山田明子と母のふれあいを通じた人間模様のあれこれ。

◆「衝 突」
 敬老の日に車で追突事故をされた老夫妻と、相手側の若いアベックとの事後の成り行きを追った物語。

◆「随想二題」
 「先生のポケット」と「教員室の蝿叩き」の二題である。いずれも著者の思い出に残る先生であり、「先生のポケット」では文学少女の門を開いてくれた小学5年の時の女先生のこと、「教員室の蝿叩き」では中学校2年から高校時代まで一緒だった男先生(K先生)の思い出話である。
 K先生とは岡山朝日高校の書道教諭だった故河田一夫先生のことである。その一部を紹介すると次のようである。
 <〜前略〜 K先生は決して怖い訳ではない。特別大きな声を出すという訳でもない。あの眼力はすべてを見通している、と彼らは言った。あの先生には嘘はつけないと彼らは言った。
 先生の授業は少し変っている。墨を磨れと言われて、全員が懸命に休み時間のうちに磨る。しかし、二年間、一度も授業中に字を書いたことはない。 〜中略〜 国語も教科書は使わないが、それ以上の内容を教えられ、毎回、感想を書けと言われる。 〜後略〜>

◆<K氏の読後感>
 「瓶井の塔」の結びから「新・平家物語」最終章の結び情景が連想されます。「新・平家物語」の最終章「吉野雛」からの引用では
『麻鳥夫婦は、今朝、旅籠でこしらえてもらって来た弁当を、ひざの上で解き合って、食べつつ、花を眺めつつ、物もいわずにいたのであった。〜』とその老夫妻の丸い背中を筆者は、一対の雛人形に喩えています。
 「瓶井の塔」も、金婚式を迎えた藤生と早苗の老夫妻がオムスビを持って瓶井の塔へ行くところでムスビになりますので、「新・平家物語」の結びを思い出します。
「瓶井の塔、懐かしいなあ。もうすぐ工事に入るらしいわ。... 奈良の方から宮大工を呼んで...」と早苗が言います。奈良と吉野が重なる「二重の塔」のイメージです。
<K氏の追加所感>
 著者である片山峰子さんのお名前も、山あり峰ありで(旧姓には畑をお持ちで)あの地域の自然を体現するようなお名前ではないでしょうか。 「瓶井の塔」というタイトルの本が世の中にあるということは、我々が忘れそうになるものを再確認する拠り所を与えられた思いです。
 塔というものは、人々の道しるべのような気がします。内田百閧ヘ「瓶井の塔」や東京・上智大学そばにある聖イグナチオ教会の塔をどんな思いで見ていたのでしょう。

<管理人の読後感>
 「瓶井の塔」の早苗と藤生の結びつき頃からは、年甲斐もなく活字に釘付けになりました。読んだ後で、「瓶井の塔」の印象的な描写があったらもっといいのになと欲張りな感想を持ちました。
 河田一臼先生の回想ともいえる「教員室の蝿叩き」は何とも面白く、その後に著者ご本人からお伺いした「机の上に長時間座らされた」という話から、当時の河田一臼先生のひたむきな教育指導姿勢が伝わってくるようでした。

◎<瓶井の塔(安住院多宝塔)の一般公開=拝観> 出向き日〜雨降りの日曜日(2010.10.03)





◇本カバー表紙の瓶井の塔・風景写真は著者片山峰子氏ご主人の撮影によるものである。2010.05.20の撮影であり、操山の中腹にある空に聳える瓶井の塔(安住院の多宝塔)の相輪と山の配置角度、相輪のあざやかさ等に気を配られたという。
 撮影場所・方向はおおむね下図の通りであります。画面に入った電線などはOA技術で削除してもらい、本カバー裏表紙のすりガラスを通したような写真は別なものかと思ったら、同一写真をこれもOA技術加工されたとのことである。

 
◇題字は片山峰子氏の以前からの知人である福井の陶芸家・佐々木禅氏の揮毫である。
ご本人は「何とも恥ずかしい」と謙遜されていたが、青い天空に吸い込まれるような爽やかな線が引き立っている。
「『塔』字の最後の跳ね上がりが瓶井の塔の印象にぴったりです。別な案だったのを、私と主人の判断で変えました」と片山峰子氏もご満悦であった。

                 ◇   ◇   ◇

■<国富瓶井町について>

 以前は国富本町とか、国富城東町、国富瓶井町、国富新畠町などの町名表示がありましたが、現在では全て国富・・(丁番地)表示となっています。しかし懐かしいこれらの町名表示は呼び名として残っており、次画像のように地域担当の三勲小学校運動会の看板表示他などで今も使用されています。


■<「瓶井(みかい)山」の由来について>
 「瓶井(みかい)」の字句由来を岡山県立図書館に問い合わせた結果、次のような回答がありました。
◇岡山市教育委員会発行『岡山市指定重要文化財安住院本堂保存修理報告書』、山陽新聞社発行『岡山県大百科事典』など、基本的な資料に「瓶井山の山腹」という表現を用いている。
◇平凡社発行『岡山県の地名』には、「瓶井山は現在の操山のことと思われる」とある。
◇昔は一番高い山頂以外にも、尾根や微高地にも名前を付けたりすることがよくあるので、「瓶井山=操山」と言えるかどうかは判断が難しい
◇一般的にはわかりづらいので、「岡山市国富の瓶井(みかい)山(操山と思われる)の中腹」と修整するのが妥当と思われる。
◇「瓶井(みかい)」の由来自体は、地名事典などからも判然としない。
◆江戸初期には既に「瓶井山」であったようだ。    ◆元禄頃には「三櫂山」となり、その後「みさほ」と読むようになったようだ。
◆推測であるが、「瓶井(みかい)」が「三櫂(みかい)」になった後、字や意味に引っ張られて「(みさお)」と読むようになった。 今度は読みから「操」の字を用いるようになったと思われる。
◆順番としては、山名があって山号を付けたけど、山自体の字が変わり、読みが変わり、現在では山号と山名が乖離してしまっている。

■三勲(さんくん)小学校・校名の由来記事
 <校名「三勲」は、三勲神社の名称に由来しています。この神社は明治元年に創建され,和気清麻呂,児島高徳,楠木正行が祭神で当初は操山山頂に社殿がありました。現在では玉井宮の社域に移されており、かつて、この地域は「三櫂(みさお)」と言われていました。 明治年間に「三勲(みさお)尋常小学校」となり、その後、学区の変遷を経て「三勲(さんくん)小学校」となりました。>

■<固有名詞「にかいの塔」>
◆K氏から教えてもらったのですが、岡山出身の文筆家:内田百閧フ「第一阿房列車」(古里の夏霞の章)に次のような文がありました。


◇即ち「瓶井」の読みを「にかい」と断言しており、地元では「瓶井(みかい)の塔」のことを「にかいの塔」と呼んでいたことになります。内田百闔≠煖L述されているように、「み」を「に」と発音する地方訛りとも思えますし、「み:さん(三重の塔)」ではなくて「に:(二重の塔)」ですよ〜という意味にもとれます。
◇この地域を少年の頃の遊び場にしていたK氏は、「瓶井の塔」のことを「にかいの塔」と呼んでいたことは勿論ですが、またこの地域を流れる川(地蔵川)をも「ニカイガワ」と呼んでいたと断定されています。片山峰子氏の記憶では「にかいの塔」はあっても「ニカイガワ」の呼び名はなかったとのことであり、土地訛り的な差異があったものと思われます。
◆いずれにせよ歴史的変遷の上にたって、様々な視点からも興味がそそられる「瓶井の塔」であります。

■<岡山競馬場>
☆岡山競馬場の沿革==昭和2年10月30日:上道郡西大寺町に<西大寺競馬場>初開催〜〜昭和7年10月まで開催
  ・昭和8年5月:岡山市原尾島に移転(西大寺鉄道/駅名「競馬場前」=昭和31年以降駅名「原尾島」)〜昭和13年まで開催(昭和14年以降は軍馬・鍛練競走を実施)
  ・昭和21年:地方競馬として再開〜〜昭和23年7月:岡山県営&岡山市営競馬として昭和28年まで開催
  ・昭和28年9月14日:岡山市江並に移転、昭和33年まで開催した後廃止となる。





 

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