岡山朝日高等学校書道部



<朝日高校書道部/関連コーナー>

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                      【 書道部員・名簿 】

◎河田一夫先生が指導された書道部の出身者名簿は次の通りです。(書道部20年記念誌による)   姓名は在籍当時の旧姓を採用。()は故人です。

◇1代→山口譲()/ 国吉幹子

◇2代→藤原邦也 / 大崎勝一郎/ 竹内節子/ 大森静江/ 虫明貞好()

◇3代→栗尾行忠 / 平井愛子

◇4代→岩藤和夫/ 高原政子 / 岡本寛子

◇5代→吉田武芳・伍賀三和子・秋山由紀子・河本智子

◇6代→山崎信義・中野和子・角田安子・苅山陽子・吉岡溥夫 ・山下康子・奥村雅子・板野陽子・進 知子・瀬崎露子・山根準治()

◇7代→西山一弘・木村祐子・高田知彦・伍賀弘子・船越由紀子・国富千重・応本秀子・大森祥子   ・丸尾嘉成()

◇8代→曽我英二・小倉 実・延永富子・水島睦枝・松本晃典・岡田 格

◇9代→江田五月・高橋衣子・藤井信子・田口節子・下坂宣子 ・山川睦恵・山田公子・吉野渥子・藤原明子・岡 知範()

10代→八代 毅/ 浅沼慶子/ 小山嘉平治

11代→福原稟二/ 光岡初子/ 杉原文雄 /   / 吉崎輝子()

12代→中原恵津子

13代→藤原和子・桐戸加枝・大本加代子・尾崎信子・今井芳美・中原美恵子

14代→坂川久子・畠瀬友三郎・武並むつ子・安藤日出子・河原欣弥・吉原 進・古川 巌

15代→久松俊昭・石畑美撰・上林文子・坂本順三・関 哲郎・高橋敦子・藤岡恭子・三宅康子・守田智恵 ・山内京子・常国良一・永井 淳()

16代→中村 実・松藤節男・佐藤登美子・佐藤 繁・小阪 穠()

17代→板野俊文・藤原準三・岸本洋子・安田英己・小田博美 ・岩崎 寛・栢原清美・佐々木 禅・吉田昭子・北村和子 ・高山直子・竹井美津子・松島典子

18代→西中英子・池田みゆき・小田篤美・斉藤敬子・香曽我部義則・大野清市・佐藤法子・牧野洋子

19代→大脇康弘・池田俊夫・大山満弓・岡村寛子・景山祐子・片山富美子・高井秀樹・友定洋子・原 和代・三宅真理子・安田早斗子

20代→木村真一・池田きよみ・今井照枝・岡本久美子・斉藤玲子・久岡和恵

21代→中岡克輔・大庭 都・小田恵子・栗原正樹・下山三津子・松倉敬子・岡 精一

 

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           【 基本八十一本 】
 河田一夫先生は生徒にご自身で創りだされた「基本八十一本」をやらせて自由な筆の運びと、集中力の大切さを説明された。  河田先生の書論「人生と書道」の中や、「書道部20年」記念誌の中で久松俊昭氏が詳しく解説しております。

●朝日高校書道部が使用していた印   「岡山朝日書道部之印」  「筆一干」
◆「筆一干」の意味についての考察   「干」は「ほす」という意味の漢字ですが、「幹」(する)の中国語表記でもあります。従って<ふでいかん>と読み、「筆をふるってみよう=揮毫してみよう」という意味ではないかと思います。



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◇朝日高校書道部 <10周年記念展> <15周年記念展> パンフレットなど〜



















書道部・OB会〜書初め会開催


◎一臼先生命日墓参 (H20=2008.11.30



2011.01.03 朝日高校書道部/書初め会





2013.01.03 朝日高校書道部/書初め会








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「書道部20年」記念誌での<河田一夫先生の巻頭辞>からの一部抜粋

 “我が前に道はなく、我が後に道は開ける”とか。朝日高校書道部の燦然としての歴史の伝統が判然と浮かび上がってくる、今日を誰が予期したであろうか。その時その時を生徒達と共にあえぎ続けた累積に外ならない。

 元来、日本の習字教育は臨書に偏していた。それ以後の書道教育もまたそうである。だから、私も生徒達へ手本を書いて与え、又古典も臨書させた。それしか出来なかった私であった。手本に依らないで、上達の方法はないものかと、常に暗中模索の長い年月が続いた。書論を東京に求めたが、無駄であった。具体的系統的書論は当時の日本にはなかった。自分は書論を創るべく暗中模索の数年が流れた。

 そしてやっと、昭和二十九年に「基本八十一本」を確立した。昭和三十年正月には『手本なき自由表現』の可能に確信が得られた。後に「起筆、送筆、終筆、速度の結合方式」を創始、それ以後これを書表現に適用させることに成功した。ここ何年間というものは、書道部員はもとより、書道選択生が楽々と自由にして個性ある表現をしている。

 思えば遠い道であったが一重に感謝している。意義のあったことを。

  書は特性として端的であり、直截だ。社会へ出ての人生は厳しいものだ。人間形成の教育の愛情が強ければ強いだけ、内に厳しさを持つ教育とならざるを得ない。それが故に続けてきた。社会情勢に左右されず、それでやりぬいてきた。自分としてはこれでよかったと思っている。

  部員各自は私の無理強いにも歯をくいしばってよく耐えてくれた。自身に常に厳しく言い聞かせ、正確に敏捷に行動することに努めてきてくれた。それはたゆまぬ集中力の継続であり、部員全体の協力となった。彼らには決して我儘は許されなかった。彼らは試練に愉悦してやり通した。私はこの厳粛さに只頭を下げた。

 私はこう言った。「先輩を敬すべしされど怖るべからず。後輩を愛せよされど怖るべし」と。良い先輩が行なってきたように、後輩もまた総てによく専念した。新入生の歓迎茶話会やら文化祭、合宿練習、強化練習、書初展等、部の行事に際しては先輩を招き、先輩は手土産まで提げて来校し、後輩を激励してくれた。私は常に涙ぐましい美しいこの状態を見るにつけ感謝に胸が痛んだ。

 現今では人間形成という言葉がしきりに叫ばれるが、書道部においては初めから人間同士同行なのだ。平凡な人間同士であった。そして「永遠なるもの」を信じ追求し続ける。書を通じて道を追求する。道は生活であり精神でもあろう。

 科学はいよいよ進歩するであろうが人間を忘れてはならない。万物の霊長である人間の精神を。そして、機械を作り駆使するのは人間であることを。創作は人生の最高の喜びである。

芸術は創作である。「人生は短く、芸術は永し」とか。





 

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