寄稿集



   <近藤敬寿=寄稿文集>





                    ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

<近藤敬寿:寄稿文C>
       
               石(意志)の声を

 2011年2月、夜行特急サンライズ・エクスプレス「瀬戸・出雲」で帰岡。車中で身を横たえた寝台の窓を無言の星が見下ろしている。浜松あたりでは下弦の月も顔を覗ける。映画「黄泉がえり」(2003年)の主題歌「月のしずく」から柴崎コウの声が流れるようだ。
 「言の葉は月のしずくの恋文(しらべ)...戦災(わざわ)う声は蝉時雨の風...
 世に咲き誇った万葉の花は移りにけりな...下弦の月が謡う永遠に続く愛を...
 彼女は、岡山県ロケの映画「県庁の星」(2006年)では、スーパー「満天堂」のパートタイマーとして市井のヒロインであった。

 「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」(「おくのほそ道」序章)。芭蕉は321年前、元禄2年(1689年)の旧暦3月27日、江戸・深川から「奥羽長途の行脚」へ出発。「只身すがらにと出で立ち侍るを、紙子(かみこ)一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたきはなむけなどしたるは、...路次(ろし)の煩いとなれるこそわりなけれ。」

 墨・筆といえば、2月27日、朝日高同期の吉田毅氏と後楽園に臨む岡山プラザホテルで再会。河田一臼先生の率いられる書道部で主将を務めた氏は、ホームページ「河田一臼記念館」に打ち込んでおられる。小生は書道部ではなく一生徒に過ぎなかったが、河田先生が校庭奥の「朝日の森」に庵を結び風流な自然体で歩かれるお姿を少年時より拝見していた。高校入学後は書道のクラスメートということもあり、近年になり吉田さんと御縁をいただいている。一年先輩の主将が江田五月法務大臣である。

 この日、光栄にも「江田五月会」へ参加の機会に恵まれた。昨年5月の同会では、ジェラルド・カーティス教授が「悲観するのは感情。楽観するのは意志。」という警句を引き、歴史の大転換に臨んでいる日本政治が対応型から提案型へそのスタイルを変える必要性を説かれた。今年の討論のゲスト、手嶋龍一氏は、「これが望んだ日本か?」と問いかけ、サッチャー首相当時の英国政治による「血の自己改革」に触れ、「自己改革しない日本の病理の深さ」を指摘された。日本ほど潜在力のある国はないとして、「政治のハイブリッド」化を提言。日本サッカーの国際化に見る如く、世界の「陰に身を潜めることなく」新しい世界のグローバル・スタンダーズのルール作りに日本が参画すべきと説かれた。国境、国籍のボーダーに風穴を空けることを江田法相に提言し、世界に積極的に関与しない国は衰退するとのド・ゴールの言を引き、国際社会の秩序作りにおける日本のリーダーシップを奨めた。江田さんは、「核軍縮、人権」をはじめ「世界の国々がみんなで世界をどのように作るかという発想の中」で、「そのためには日本はこうあらねばならない」という「政治の大きなテーマ」を確認した。衆参のネジレについては、ネジレでない議会は世界にほとんどなく、その中での意志決定のための調整、合意作りが普通の議会制であると力説された。討論の結びで交わされたキーワードは「deal」。これを「ネジレ」に対する「シノギ」とパラフレーズされた江田さんに捻り鉢巻を結ぶ固い意志を見せていただいた。会の締めくくりにいただいた江田さんの御挨拶状に「もともと地上に道はない。みんなで歩けば道になる。」という江田三郎さんの好まれたといわれる言葉が見える。

 「楽観するのは意志」。この言葉に惹かれ、「過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し...信託されたものである」石(意志)を見に行く。翌朝、雨の中を朝日高の校門へ。石積み(正門及び外周)、柔道場並びに書庫の建物が平成22年度(2010年)の国の登録有形文化財に指定された。六高(明治33年=1900年――昭和25年=1950年)から引き継がれる遺産、遺志である。3段あるいは4段の石組みの背丈が往時に比べ低く見える。その喪失感の一因に気づいた。根本が隠れている。かつては石垣の基部と道路の間が溝になっていた。道の舗装拡幅に伴ない石垣の根本も1段ほど埋まったようだ。その場の立体感の喪失に輪をかけるのが、道路の外縁を成していた10段ほどの石垣の埋没だ。道路下の水田地帯が埋めたてられ朝日高周囲の道路との高低差の崖がなくなっている。石積みが地中に沈んだ、そんな感じがする。かつては見上げ、見下ろしたものが平たくなっている。’The World Is Flat’――水平化する世界経済をテーマとするトーマス・フリードマンの書名が浮かぶ。江戸から明治へ、戦前から戦後へ、そして第三番目の変革期の今。その三段跳びの飛躍を象徴するような石積みの文化財登録である。戦災でほとんどの校舎は失われたが、周縁に位置する石積み、正門、書庫、柔道場が生き延びた。石積みの「遺志」への想いが深まる。ふと操山を仰げば、「二重の塔」と呼び習わしてきた「瓶井(みかい)の塔」が改装された英姿を見せている。1階部分は、歴史とともに成長した松の緑に抱かれている。三勲小学校(校歌の歌い出しの句が「緑の深い操山、流れてめぐる旭川」)、操山中学校、朝日高校の先輩である片山峰子さんの随筆「瓶井の塔」を昨年読ませていただいたことは記憶に新しい。

 
 朝日の地から更に周縁といえば、旭川の土手が想われる。朝日高と同じ古京町出身の内田百閧ヘ、後楽園の土手への思いが深かったことが偲ばれる。東京で昭和12年(1937年)に移り住んだのが、「麹町土手三番町」(現在の千代田区五番町)。市ヶ谷の法政大学方面から四ッ谷駅方面へかけての土手は外濠公園の遊歩道であるが、この土手の下に百閧ウんが住んでいた。これは後楽園の土手近くの古京に住んでいたのとパラレルになる。更に、外濠公園を下ればほどなく後楽園(小石川)である。この土手に関連して、作家・小川洋子さん(朝日卒)の興味深いコメントがある。朝日新聞1月18日(夕)「ニッポン宝さがし、岡山、ゆかりの人」というコラムに、「岡山市の、後楽園に近い森下町で生まれ、小学5年生まで過ごし...隣りが内田百閧ェ生まれた古京町で」とあり、「百閧ヘ土手を、現実と異界を隔てる象徴として繰り返し書きましたが、この感覚はわかります。家を走り出る時は現実ですが、土手を越えて川べりに下りた瞬間、遊びの世界、自分だけの世界です。夕方、県庁から時報代わりのドボルザークの『家路』が流れると、また現実へ帰っていく。」と語る。同じ森下出身の小生にもピンと来る。加えて、外濠公園の延長線上、四ッ谷駅を挟んで向かい側にある上智大学でいまだに学生気分の小生は、半世紀近く前の在学時には、森下・古京間と同じく4−5分の目と鼻の先に時を同じくして、道の向かいの土手下に百閧ウんが住んでおられたことに今頃気づき、そのパラレルに感銘を深めている。

 この土手の基部も江戸城外周の石垣としてがっちり固められている。江田五月会の会場フロアーからは、岡山城を望んだ。戦災で六高が焼けた時には城も焼け落ち、子供時分には立派な石垣群の上に草茫々の烏城公園が広がっていた。焼け跡が遊び場だったわけだ。見事に再建された城の天守を眺めるにつけ、石垣だけの時代が追憶される。
 「石を相手にせよ」というエッセイがある。山陽新聞「一日一題」(昭和54年、1979年9月20日)に鉱物学博士、逸見吉之助岡山大学理学部長(当時)の言葉があるーー「石に語らせ、静かにその声を聴け。」

  万葉歌 「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出ずる春になりにけるかも」(「河田一臼記念館」所蔵、山崎徹道さん書作品から)

                                                    2011年3月2日記

 河田一臼記念館 〜〜山崎徹道うた作品(2)








                        ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 

<近藤敬寿:寄稿文A>

       
          ★茶摘み記 at 岡山・後楽園★
                                   
 517日の朝、後楽園の茶畑に立つ。立てば吉兆――湯呑みの中の小さな茶柱になった夢見心地。
 庭園の中央部、唯心山や沢の池から東に操山を望む方角に茶畑がある。前面の散策路を素通りしたことはあるが、畑に入るのは初めて。踏みしめる土が柔らかい。指先を迎える新芽の柔和さとマッチする土の深み。一箇所ばかり摘み込まないで新芽の伸びを求めて畝の先を見通すようにとコーチが教えてくれる。茶畑は芝生のフィールドから散策路を隔てて一段高い緩斜面。ひっそりした聖域の趣きがある。

 今日は年に一度の茶摘み祭り。昭和31年以来、54回目だそうだ。半世紀前といえば幼少時、茶畑の奥、庭園の外周を成す竹林に潜り込み、竹の子狩りをして叱られたが、整然とした茶畑の畝には興味がなかった。多少なりとも年月を経たわが身は隠せないが、風雪を越えたお茶の木の変わらぬ瑞々しい姿に接すると、「夢は老いることなく、悠久のまま〜」(「千年の古都」)こんな歌詞が浮かんでくる。

 茶摘み体験の前に、茶摘み踊りを見学。県北・美作(みまさか)市海田(かいた)地区の中・高校生の選抜チーム。畑の前の芝生で海田の茶摘み歌と共に踊りの輪が繰り広げられる。平素は踏み入ることを許されないオフリミットの芝生内に入ることで、特別な日であることを実感する。

 古風な茶摘み唄を聞いていると、「茜だすきに菅の傘」の娘さんたちの向こうにお通さんが見えてくるようだ。
「作州街道は...山ばかりを縫って入る...中山峠を越え、...宮本村だった。.......七宝寺の縁がわで、お通は...年は、去年が十六」
『なぜ男は、戦になど行くのだろう』
『お通さん、どこへ行くのかね』
『あしたは、四月八日でしょう...花御堂の花を摘んできて、潅仏会のお支度.......晩には、甘茶も煮て...
『平和だなあ』
青年沢庵は、宗教家らしい詠嘆を漏らしてその側に立った。
『のどが渇いたのだ。お茶をもらおう』」
             (吉川英治「宮本武蔵」の冒頭近く「地の巻」・「花御堂」の章から)

 茶摘み娘さんたちの里、美作の海田は、代表的な茶所の由。宮本武蔵の古里、大原も美作。海田川に立ちこめる朝霧が運ぶ昼夜の気温較差が茶の栽培条件をもたらす(美作町史)。この川が注ぐ吉野川(吉井川上流)を上れば武蔵の里とつながる。お通さんと沢庵の心配をよそに武蔵は功名心に駆られ関が原の合戦へ。下関海峡・巌流島の決闘直前にお通さんと邂逅するまでの波瀾万丈。
 お通、沢庵、武蔵、又八...みんな美作のお茶で育ったであろう。

 観覧者の前で茶摘み踊りのゆっくりとした足の運びが観覧車のように輪を描いて回る。その横には、井田(せいでん)が広がる。踊りが描く円形の線と好対照の正方形だ。何枚かの田を重ねる中心に交叉するクロスの十文字。岡山城寄りの唯心山から見おろせばダイヤの形が鮮やかだ。どこかで見た菱形のモチーフ。操山から見下ろした朝日高のグラウンドだ。井田では田植え祭りも間もなく行われるとのこと。蛙も声を合せて歌うだろう。

 蛙といえば蓮。後楽園の「花葉(かよう)の池」では大賀蓮が大名蓮に押され気味とか。大賀蓮救出作戦のため井田一枚を蓮池にして試験中の由。齢2000年の大賀蓮は全国に根を張って目出度いことだが、大賀博士の古里岡山で、庭瀬はもとより、後楽園でも頑張ってもらいたい。


 午後は、いよいよ近くの「江田五月会」で稀に見る邂逅。「鶴鳴」の声が後楽園から届く場所である。正にカクメイテキ。いくつもの尊い出会い、再会の念願を果たした。幼馴染みには、朝摘んだお茶の新芽をプレゼントした。
 後楽園駅(現在の夢二郷土美術館の位置)を発着点とする軽便鉄道が走っていた古い時代に、線路沿いに茂ったカラスノエンドウがお茶の原料になるという子供情報がブームとなり、競って集めたことがあった。お茶よりもあの可憐な花に惹かれてのことであったろう。

 会場では、お世話になっている同期生の紹介で書道部出身の先輩方にもご挨拶する機会に恵まれた。幸運は重なり、抽選では備前焼の花入れを戴いた。「素朴な土のにおい・心の友」と題する窯元「松園」の作品である。
 包装に見える古今集の歌は、「あふことは 雲居はるかに鳴る神の 音にききつつ 恋ひわたるかな。」 古今集と同様に平安時代に生まれ1000年の歴史を誇る備前焼。赤松の火から備前香登(かがと)の土で生まれた茶室を飾る友だ。邂逅の「松」は英語でpine。動詞では「恋うる」となる。

         「桜より 松は二木(ふたき)を 三月越し」       (芭蕉「おくのほそ道」、武隈の松にて) 
Since cherry-blossom time  Ive pined; now I see a twin pine  Three months afterwards. (ドナルド・キーン訳)


 翌18日は、同期生宅でつばめとの再会。画像で見てきた姿を初めて目近に見上げた。お互いにドキドキしていたはずだ。新しい生命を抱きかかえ、真剣そのものの様子。
 見なれぬ新顔の闖入で、つばめの世界を驚かせてはいけない。お茶の新芽に分け入るのとは、わけがちがう。還ってきたつばめは、マイホームの主人のつもりだろう。
 人間のご主人から次のものをはじめ数々の貴重なお言葉をいただいた。
 「人間是非一夢中」 「白雲千載空悠々」 「還郷」

 茶畑の新芽を這いまわる小さい虫にもシーズン到来の意気込みが見えるようだった。あの畑のフィールド感の広がり。「踏みしめる土の饒舌」が語りかける茶摘みのシーズンだ。
 「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る」

 ひそかに人生の師と仰ぐ高校時代の先生の八十一歳の色紙作品「還郷」との邂逅。
 茶摘み踊りの回る環が、54回目の茶摘み祭りの重なる年輪を見せてくれるようであった。

 「かさねとは 八重撫子の 名成るべし」  ( 「おくのほそ道」・曽良 )
                                                  2009524日記 




                         ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

<近藤敬寿:寄稿文@>
                   ★吉川英治記念館で時代の流れを思う★

 「大衆即大知識」を座右の銘とした吉川英治。1892(明治25)年生まれ、1962(昭和37)年逝去。終戦をはさむ10年間――1944(昭和19)年―1953(昭和28)年――多摩川上流、東京都西多摩郡の山里(現、青梅市)、吉野の里に住んだ。その居を「草思堂」と名づけ、戦中戦後の激動期に村人たちと交流し、「吉川文学再生の地」とした。その旧居の一隅に1977(昭和52)年開館の吉川英治記念館がある。昭和37年に上京し、当時の北多摩郡に住みついた者として、折にふれ、多摩川を遡り「大衆即大知識」の発信源を尋ねている。「吉川英治記念館」パンフレット、同紹介ビデオ・ナレーション及び展示室説明文の参照を含め、時代の流れを遡ってみよう。

 JR青梅線青梅駅から吉野行きの都バスに乗る。吉野街道へ向けて多摩川を渡る万年橋。そのバス停の名を聞くと、「萬年酢」の高い煙突が思い出される。郷里岡山市街が高層化する前の時代には、岡山駅発着時に必ず目を届けることができた生地のランドマークだった。その追憶も束の間、多摩川沿いに吉野街道を15分―20分ほど遡り「柚木」(ゆぎ)下車。柚子の産地に因む地名かと想われるが、春先は梅の名所として賑わう吉野梅郷。〔青梅駅からの都バスとは別に、吉川英治記念館へのJR最寄り駅は、青梅線奥多摩行きの二俣尾(ふたまたお)。下車徒歩約15−20分〕

 記念館は吉野梅郷の西並びにある。「山と川とに抱かれて名も麗しの学び舎は...」と歌った郷里の小学校の校歌が蘇えるようなたたずまいだ。街道から一歩小道を入り、そっと門をくぐれば和風庭園の中に母屋が立つ。磨きぬかれた縁側の板間を見るにつけ、古里に舞い戻ったような懐かしみに包まれる。



 展示室で最初に出合うのが「宮本武蔵」―1935(昭和10)年から1939(昭和14)年連載(朝日新聞)――の自筆原稿。一気に戦前の空気に包まれる。最終回の原稿「円明の巻」の「魚歌水心」の章。
 結語が虎の巻を解くように展開する巌流島決闘シーン。「『――ア。アッ』『巌流どのが』...時は経ても、感情の波長はつぎつぎにうねってゆく。武蔵が生きている間は、なお快しとしない人々が、その折の彼の行動を批判して、すぐこういった。『あの折は、帰りの逃げ途も怖いし、武蔵にせよ、だいぶ狼狽しておったさ。何となれば、巌流に止刀(とどめ)を刺すのを忘れて行ったのを見てもわかるではないか』――と。波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。
 けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」

 武蔵は、美作(みまさか)国、吉野郡宮本(現、岡山県美作市)の出身(※)といわれ、JR智頭(ちず)線に宮本武蔵駅もできている。吉川英治の草思堂が旧西多摩郡吉野村にあり、作品「宮本武蔵」には「吉野太夫」も登場する。武蔵の母親の名が「よし」であったともいわれ、「よし」の名で広がる人と場所のつながりが興味深い。(※播磨国出身説もある。)

 場の広がりといえば、「海を越えた吉川文学」というイベントが夏(5月―7月)に展示室で行なわれ、翻訳版が勢揃いした。吉川文学は、20以上の言語に訳されたという。横浜生まれの吉川英治は、苦難の少年期には「年齢を偽っての船具工」も経験し、父親ともども海や船との因縁浅からぬものがあった。かつて武蔵国と呼ばれた地域に住む者として、郷里岡山出身の「武蔵」が作品として世界を股にかける姿を目の当たりにして、親近感を深くした。映画版のビデオ放映もあり、活弁よろしく英語ナレーションが響く。

 「魚歌水心」のフィナーレの言葉は、
 Who knows the heart of the sea? (誰か知ろう、海の心底を)

 脇に展示された米紙の見出しには、
 Japanese Gone With the Wind(日本版「風と共に去りぬ」)とあった。
 また、“As Shogun ends, So Musashi begins”という比喩的な見出しの評もあり、将軍の退場と対比させて、武蔵を大衆の側に立たせる見方のようであった。

 多摩川上流の奥多摩で、英語版「MUSASHI」の語りを聞きながら、この御岳(みたけ)渓谷の流れに乗る声が海に届くことを想う。 「魚歌水心」の行りでは、現在の関門海峡を船島(巌流島)へ向ける小舟の中で武蔵が船頭に語る。「元暦の昔、九郎判官殿や、平の知盛卿などの戦の跡だの。」決闘に臨む武蔵は、その400年以上前の源平合戦の終焉地、壇ノ浦で舟を進めながら櫂(かい)の木刀を削っているのである。壇ノ浦(現、下関市)の合戦は、平安時代末期、1185(元暦2)年であった。

 展示室では、「宮本武蔵」の原稿と対をなすかのように、 「新・平家物語」の原稿が見える。晩年の代表作といわれるこの作品を1950(昭和25)年に起稿、同年12月には瀬戸内・九州方面へ資料取材を重ねている。その展示解説文には、キーワードと思われる「権力の魔力」という言葉が見える。権力の「権」が武力の「剣」とも重なって見えるようだが、 「宮本武蔵」の「著者はしがき(昭和24年2月、吉野村)」では次のように語っている。「もとより武蔵の剣は殺(さつ)でなく...愛の剣である。...人間宿命の解脱をはかった、哲人の道でもある。」

 巌流島の決闘は1612年といわれるが、1610年―1611年頃には、海の彼方でシェークスピアが最後の作品「テンペスト」()を世に贈った。劇作の筆を折って引退する前、大衆への別れの挨拶とした作品といわれる。そのラストシーン5幕1場で、主人公に決意させる。
 「荒い魔力=rough magicを放棄しよう。魔法の剣を折り、地底深く埋めよう。鉛をつけた糸も届かぬほど海底深く、魔力の虎の巻を沈めよう。」
 島外の人間、いわば外国人をはじめて見る新しい目を持つ子孫には、人間の美を称えさせ、
 “O brave new world” (素晴らしい新世界)と語らせている。



 樹齢500年-600年といわれる一対の椎の大木が草思堂を見守る。武人として二刀流で知られる宮本武蔵は、文人として「二天」と号し、剣と筆との二刀流でもあった。その二つの剣が天を指しているようにも見える大木である。樹齢を思えば、武蔵よりも前の時代からこの地を見ているのであろうか。
 もうひとつの二本の流れに目を転じてみよう。JR線が我が昭島の隣り、拝島駅からY字形に分岐して御岳渓谷沿いに奥多摩方面へ向かうのが青梅線。秋川渓谷沿いを五日市へ向かうのが五日市線。戦後の新生日本の始発点となった新憲法のルーツを語るときに欠かせないのが五日市憲法草案だ。明治の自由民権運動の指導者、植木枝盛の憲法草案を参考に、1881(明治14)年、五日市の大衆の間で討論が重ねられ、人権意識の高い五日市憲法が起草された。
 それを源流のひとつとして、1946(昭和21)年11月発布の日本国憲法が今日に至っている。このことは、最近の映画「日本の青空」(大澤豊監督)でも紹介された。また、東京文化財ウィーク2008(東京都教育委員会主催)の一環として「『五日市憲法草案』とその創造の軌跡」展が「文化の日」をはさんで10月25日―11月9日の間(金曜休み)、あきる野市中央図書館で開催されている。林業と養蚕の村、五日市(いつかいち)から秋川・多摩川を下る船が木材を東京へ、生糸を横浜から欧米へ向け、戻る船が横浜から多摩川・秋川を遡って欧米の書物と民権思想を五日市へもたらした。横浜生まれの吉川英治が多摩川上流、御岳渓谷の青梅・吉野の里へ住んだのとパラレルを成す興味深い流れである。

 1944(昭和19)年からの草思堂住まいを境にして、吉川英治の時代背景にも新旧の二つが対峙している。1945(昭和20)年8月、敗戦とともに草思堂で筆を折った。「はづかしや 昭和二十の 秋の月」の句が、展示室の色紙に見える。吉川英治が再生を期した時代は、国民主権を高らかに謳う日本国憲法誕生の時と重なっている。「国民文学」の名で幅広い階層に親しまれる吉川英治は、「大衆即大知識」の座右銘を深く刻み、1948(昭和23)年に「高山右近」で執筆を再開、1949(昭和24)年、吉野山の桜を見、「新・平家物語」の想を固めた。1950(昭和25)年4月連載(週刊朝日)開始―1957(昭和32)年2月脱稿、戦後吉川文学の代表作といわれる。

 15−16世紀に生をうけ、旧武蔵国の多摩の地で山と川とに抱かれて、幼木の時代から世の変遷を見てきた椎の大木は、この秋も庭の斜面にその実を弾ませながら吉川文学再生の地となった草思堂の書斎と母屋を見守っている。                    

                                             2008年10月31日

                        ◇       ◇       ◇


 

ホームページ<河田一臼記念館>に戻る

inserted by FC2 system